がんばっている君へ

 月並みですが、頑張っている君に何故、応援しているのか、頑張っていると判断しているのかを書きたいと思います。

 今年のお正月には、箱根駅伝を沿道で応援しました。母校、早稲田は個人的には優勝候補。1区で出遅れましたが、3区で巻き返し。復路での活躍が期待されましたがふるわず10区でデットヒートがあり最終的には5位でした。もちろん、優勝してほしかったですが、もし選手達に声をかける機会があったならば、修了後はひとまずはお疲れさま、よくがんばったと言うでしょう。沿道でも「がんばれ!」と声をかけました。それは、本人が頑張っていないから頑張れという声をかけているわけではなくて、頑張っている姿を見て、頑張れと言っているわけですね。物理的にはまったく意味がありませんが、もしかしたらその背中を少しでも押してあげ助けることができるような気持ちでの「頑張れ!」です。確かに、その時点では1位ではなく競争としての結果がでていないかもしれませんし、参加の中には応援した選手よりももっと何かの指標的に頑張っていた選手がいるかもしれません。しかしながら、そんなことは無意味です。他のそんな選手がいてもいなくても、その選手が頑張っていると感じるからこそ、「頑張って」「頑張ってるね」という声を掛けるのです。
 では、何故、頑張っているねと感じるのでしょうか。それは、目標をたててそれに向かってあがき苦しみ努力して進もうとしているからでしょう。もしかしたら、目標が遠すぎるのかもしれないし、あやふやかもしれない。もがいているから進みが遅いかもしれない。それでも何とかしようとする努力と意思がある場合、他の人はがんばっているねと感じることが多いでしょう。
 常に頑張る必要もありません。道の分岐点では大いに立ち止まりどちらに行けばよいのかしっかりと悩むべきです。でも、いったん分岐の道のどちらかを選んだら走り始めた方がよいですね。それもがむしゃらに。ひどく力を使いすぎると病気になってしまいますが、ピークの1割、2割増し程度の負荷をかけると自身の能力は高まりますし、リハビリも効果があるでしょう。また、思っていた次のゴールにたどり着いたとき、思ったようにゴールにたどり着けないときには、引き返してくるのもありだと思います。走り出したことは無駄ではありません。でも走り始める必要があると思うのです。
 化学合成で反応が進まない難しい反応の場合、よりよい酵素が見つかると反応に必要な活性エネルギーが下がり、化学合成が進むことがあります。頑張っている人に声をかけることで、酵素の役割ができればそれはすばらしいことです。二股の道の一方を選んでその道を走り始めるのは本人です。けれども、選んだ先、もしくはその途中が不本意で元の二股に戻ってくるかもしれません。そのときには、戻ってくる君を待ち受ける役ができればそれはすばらしいことです。