視点をGPTに与えて、文章を生成させています。
2026年の秋、サイバー攻撃に関するニュースが妙に目につくようになった。
大阪公立大学、IDCフロンティア、物語コーポレーション、パーク24など、大学から企業まで、さまざまな組織でサイバー攻撃や情報漏洩に関する問題が報じられている。
こうしたニュースを眺めながら、最初に感じたのは、少し乱暴かもしれないが、こんなことだった。
「これ、明らかにAIが高度化した影響ではないか?」
もちろん、個々の事件にAIが使われたと確認されているわけではない。サイバー攻撃はAIが登場するずっと以前から存在していたし、被害の公表が増えたことと、実際の攻撃件数が増えたことも区別する必要がある。
ただ、AIによって攻撃の敷居が下がりつつあることは、十分に考えられる。
以前なら高度な専門知識が必要だったプログラムの作成や脆弱性の調査も、AIの支援によって取り組みやすくなっている。攻撃の試行錯誤にもAIを利用できる。
一人の人間が持つ能力を、AIが大きく拡張する時代になった。
それ自体は、私たちが普段AIに期待していることでもある。
ただし、その能力を使う人が善人とは限らない。
技術というものは、なかなか利用者の人柄まで選んでくれないのである。
攻撃者は賢くなるのに、防御者はなぜ強くならないのか
ここで、一つの疑問が生まれた。
AIによって攻撃者の能力が拡張されるのであれば、防御する側も同じように強くなれるのではないか。
実際、AIは不正アクセスの検知、ログの分析、脆弱性の発見など、防御にも活用できる。
攻撃者だけがAIを使えるわけではない。
それなのに、なぜ防御はこれほど難しいのだろう。
少し考えてみると、攻撃と防御には大きな違いがあることに気づく。
攻撃者は、少人数でも行動できる。AIが発見した攻撃の可能性を試し、失敗すれば別の方法を考えればよい。
一方、組織の防御はそう簡単ではない。
例えば、AIが大学の情報システムに重大な脆弱性を発見したとしよう。
技術的には、すぐに修正した方がよい。
しかし、実際に修正するためには、担当部署への連絡、影響範囲の調査、予算の確保、システム停止の判断、利用者への周知など、多くの作業が必要になる。
「危険なので、今すぐシステムを止めましょう」
とAIが提案しても、
「明日は重要な会議がある」
「学生への影響はどうするのか」
「誰が責任を取るのか」
という話になる。
AIは数秒で答えを出したのに、人間の会議は数週間かかるかもしれない。
考えてみれば、少し不思議な光景である。
攻撃者のAI導入は、主として技術の問題で済む場合がある。しかし、防御側でAIの能力を十分に生かすには、組織そのものを変えなければならない。
そんな非対称性があるのではないか。
問題は組織ではなく、人と人との間にある
最初は、AI時代のボトルネックは人間の組織能力なのだと考えた。
AIがどれほど高度になっても、人間の組織が変わらなければ、その能力を十分に利用できない。
これは、それなりに納得できる説明である。
しかし、もう少し考えていると、何かが引っかかった。
本当に問題なのは、組織能力なのだろうか。
組織というものを少し分解してみると、結局のところ、人間と人間の関係で成り立っている。
組織図には、部長、課長、担当者などの役職が並んでいる。そこには矢印が引かれ、情報や命令が流れることになっている。
しかし、実際の組織では、組織図に描かれたとおりに情報が流れるとは限らない。
知っていることを報告しない人がいる。
報告を受けても動かない人がいる。
問題を理解していても、決断を先延ばしにする人がいる。
もちろん、それぞれに理由がある。
では、なぜそのようなことが起こるのだろう。
情報が足りないからだろうか。
必ずしもそうではない。
正しい情報があっても、人間は正しいと考えられる行動を選ぶとは限らない。
ここで、ようやく別の言葉が浮かんできた。
「気持ち」である。
最後に立ちはだかるのは「気持ち」
人間は、合理性だけで行動しているわけではない。
自分の責任にされたくない。
今の立場を守りたい。
他人から指図されたくない。
これまでのやり方を否定されたくない。
相手を信用できない。
あるいは、単純に、あの人の言うことは聞きたくない。
こうした気持ちは、どんな組織にも存在する。
そして、これらは必ずしも悪意から生まれるものではない。
自分を守ろうとすることも、これまでの経験を大切にすることも、他人を慎重に信用しようとすることも、人間にとって自然な反応である。
そもそも、人間の気持ちはどこから生まれてくるのだろう。
そこには、遺伝的な素因や進化の過程で形成された心理的傾向がある。
さらに、家庭、教育、社会制度、慣習、宗教、文化、個人の経験などが複雑に影響している。
私たちが「自分の気持ち」と呼んでいるものは、実は自分一人で作り上げたものではない。
長い生物の歴史と、社会の歴史が折り重なって生まれてきたものなのだろう。
そう考えると、会議で意見がまとまらないことも、単に参加者の能力が低いからとは言えなくなる。
何十億年にも及ぶ進化の歴史と、それぞれの人生経験が、一つの会議室に集まっている。
それは、簡単に意見が一致しないのも無理はない。
社会システムが悪いのではなかった
ここまで考えたところで、もう一つの気づきがあった。
最初は、社会システムが人間の気持ちをうまく扱えていないことが問題なのだと思っていた。
法律や制度、組織の仕組みが、人間の感情や価値観を十分に考慮していない。
だから、組織がうまく動かない。
しかし、どうもそれだけではない。
社会システムが人間の気持ちを扱えないのではなく、人間が他人の気持ちをうまく扱えないから、社会システムが機能しなくなるのではないか。
この二つは似ているようで、ずいぶん違う。
制度に問題があるのなら、制度を改正すればよい。
組織構造に問題があるのなら、組織を再編すればよい。
しかし、制度を設計するのも、運用するのも、人間である。
そして、その人間自身が、他人の気持ちを十分に理解できない。
どれほど立派な制度を作っても、それを運用する人間同士が理解し合えなければ、期待したようには機能しない。
もちろん、制度設計の良し悪しがなくなるわけではない。人間の弱さを補うために、制度は存在しているとも言える。
ただ、その制度の中に、再び人間の問題が現れてくる。
これは、なかなか厄介な構造である。
自分の気持ちはわかる。でも、他人の気持ちはわからない
そもそも、人間には根源的な非対称性がある。
自分の気持ちは、自分で経験できる。
嬉しい、悲しい、腹が立つ、不安になる。
その感覚は、自分の内側にある。
しかし、他人の気持ちは直接経験できない。
相手の言葉や表情、行動から推測するしかない。
しかも、その推測には、自分自身の価値観が入り込んでくる。
例えば、自分がある発言を批判だと受け取ったとしても、相手は単純に疑問を述べただけかもしれない。
反対に、自分では親切のつもりで言ったことが、相手には干渉や押しつけに感じられることもある。
人間は、他人の気持ちを理解しようとするときでさえ、自分の気持ちというフィルターを通して相手を見ている。
他人の気持ちを理解しようとする行為そのものが、自分の気持ちによって歪められる可能性がある。
そう考えると、人間同士が完全に理解し合うことは、原理的に難しいのかもしれない。
それでも人間は、社会を作り、組織を作り、協力して生きてきた。
だからこそ、法律やルール、慣習や制度が必要だったのだろう。
他人の内面を完全には理解できないから、共通の約束を作る。
ところが、その約束を運用する際にも、他人の気持ちを理解できないという問題が現れる。
人間社会は、ずいぶん昔から、この循環の中にいるのかもしれない。
AIは、人間と人間の間に入れるだろうか
ここで、最初のAIの話に戻ってみたい。
これまで私たちは、AIを人間の知的能力を拡張する技術として考えてきた。
計算を速くする。
大量の情報を分析する。
文章を書く。
プログラムを作る。
新しいアイデアを生み出す。
いずれも、個人の知的作業を支援するものである。
しかし、もし人間社会のボトルネックが、人間同士の相互理解にあるのなら、AIには別の役割があるのではないか。
例えば、会議で意見が対立している二人がいたとする。
一方は、安全性を重視している。
もう一方は、利用者へのサービス継続を重視している。
人間同士では、つい「相手は問題を理解していない」と考えてしまう。
しかし、AIがそれぞれの主張を整理し、
「お二人は対立しているようですが、重視している価値が異なるようです」
と示すことができたらどうだろう。
もちろん、AIが相手の本当の気持ちを読み取れるわけではない。
AIもまた、言葉や行動から推測しているにすぎない。ときには、もっともらしい誤解を生み出す可能性もある。
だからこそ、AIの解釈を本人に確かめることが重要になる。
それでも、人間同士では感情的になってしまう問題を、少し離れたところから眺め直す手助けはできるかもしれない。
AIが人間の代わりに判断するのではない。
人間が他人を理解するための、新しい鏡になるのである。
他人を理解する前に、自分を理解できているだろうか
ここまで考えると、Self-awareness、すなわち自己認識の問題にもつながってくる。
私たちは、自分の気持ちを直接経験できる。
しかし、だからといって、自分の気持ちを十分に理解しているとは限らない。
なぜ、あの人の発言に腹が立ったのか。
なぜ、その提案に抵抗を感じるのか。
なぜ、自分はある価値観を大切にしているのか。
意外なほど、説明できないことが多い。
自分の気持ちなのに、自分でもよくわからない。
そう考えると、他人の気持ちを理解することが難しいのも、当然なのかもしれない。
最近、AIと対話しながら、自分の価値観について考える機会があった。
自分が大切にしているのは、正義、自由、好奇心、探究、発見、創造性といったものらしい。
言葉にしてみると、自分の判断や行動の背景が少し見えてくる。
同時に、自分が大切にしている価値観を、他人も同じように大切にしているとは限らないことにも気づく。
ある人にとっては自由が重要でも、別の人にとっては安定や安心の方が重要かもしれない。
どちらかが間違っているという話ではない。
人間は、それぞれ異なる背景を持って生きている。
AIとの対話によって、自分でも気づいていなかった価値観を言語化できれば、他人の価値観を見る目も少し変わるのではないだろうか。
自分を理解することが、他人を理解するための入口になる。
そして、他人を理解しようとすることで、また自分自身への理解が深まる。
そんな循環も考えられる。
AIが進化するほど、人間らしさが問題になる
サイバー攻撃のニュースから始まった話が、ずいぶん遠くまで来てしまった。
最初は、AIによって攻撃者の能力が高まり、防御側が追いつけなくなるのではないか、という技術的な疑問だった。
ところが、その理由を考えていくと、組織の問題になり、コミュニケーションの問題になり、最後には人間の気持ちの問題にたどり着いた。
AIが高度化すればするほど、人間の知的能力に関する制約は少しずつ小さくなっていく。
しかし、人間同士の気持ちのすれ違いは、そう簡単にはなくならない。
むしろ、AIによって技術的な問題を解決する速度が上がるほど、人間同士の相互理解に必要な時間が、相対的に大きく見えてくるのかもしれない。
これは、少し皮肉なことである。
人類は、非常に高度な知能を持つAIを作り始めている。
その一方で、隣に座っている人が何を考えているのか、相変わらずよくわからない。
しかし、ここにAIの次の可能性があるようにも思う。
AIが人間の代わりに考えるだけではなく、人間が自分自身を理解し、他人を理解することを支援する。
知識や情報の処理能力を拡張するだけではなく、人間と人間の間にある、見えない距離を少し縮める。
もし、そのようなことができるのであれば、AIの社会的な意味は、今とはずいぶん違ったものになるだろう。
もっとも、他人の気持ちを理解するAIを作る前に、私たちは自分自身の気持ちをどれほど理解しているのだろうか。
AI時代の最大のボトルネックは、人間の「気持ち」なのかもしれない。
そして、そのボトルネックを解きほぐすために、AIという新しい知能が役に立つのだとしたら。
AIが本当に変えるものは、人間の頭の中だけではなく、人間と人間の間にあるのかもしれない。