談志 最後の落語論 | |
立川談志
梧桐書院 2009-11-17 |
談志 最後の落語論 読了。
大学で何を教えるかとか、京都での大学の意義とかいろいろと考えるところがあり、もやもやしてしまうのだが、談志の弟子の談春は芝浜を封印するつもりなのかもしれない。
邪推しすぎかもしれないけど。
ことの発端は、落語好きの私の親友につれられて、談春の「芝浜」を初めてみたのだが、終わってから彼が
話としては面白いけれど、でもあまり才能がないのに博打をやってしまったり、酒を飲んでしまったりする者は浮かばれないではないか、そういう人たちを描くのが落語ではないか? 腕がよくない者はどうしたらいい?
という質問をしてきて(ことの詳細はこちら)、僕としては人は誰しも何かの取り柄を持っている、もっているはずだという答えをしたと思う。
しかし、この本では、
いいほうの業の肯定を人情噺と称い。。。 曰ク「文七元結」「子別れ」「芝浜」などなど
それは違うなあと若き俺様はどこかでそう感じ、そのまま今日まで生きてきた。
とある。
えー 全否定ですか。
それから最後の方に、芝浜をちょっと変えたアレンジでやっている話しがあって
「もう嫌だ、よそう。お前さん、酒飲んじゃおう。ね、飲もう」この女房のセリフは、己に女房が乗り移って言っていたようでもあった。「こんな落語、嫌いだよ」とネ。
とある。
こないだの談春は、財布を拾う情景をはしょって、最後の女房とのやりとりまでいっきに聞かせた。
こんな落語、嫌いだよといったのかもしれない。
そして3月に 談春は子別れをやる。
いいほうの業の肯定する「文七元結」「子別れ」「芝浜」3連ちゃんだ。
落語は人間の業であると談志は言い、談春は談志の弟子である。落語の極みを目指している談春は、もしかしたら「文七元結」「子別れ」「芝浜」を封印するかもしれない。
考え過ぎかもしれないけど。