デジタルコンテンツの時代について

これは2001年の10月くらいの文章

ついこの間まで,日本の家庭におけるインターネットの普及は遅れているだとか,アメリカや韓国と比較してコストが割高だとか言われてきた。最近になって急にこの状況が一変した。少なくともADSL(非対称デジタル加入者線)に関しては,世界一料金設定の安い国の一つになってしまった。いつもながら極端だ。まあこれであっという間に家庭でのインターネットへの常時接続が進むことであろう。こうなると来るべき時代はデジタルコンテンツの時代だ。
Information Technology (IT)革命という言葉が一人歩きしている。IT革命というとITを使うと革命的なことができるように聞こえるが,ITなんていうものはツールでしかないので革命には至らない。すでにはじけてしまったが,かつてのアメリカの好景気を説明するための用語であるIT革命という言葉が間違った使われ方をしているためだろう。携帯電話は新しく世界に出現したシステムではなくて,もちろん電話の延長上にある通信機器だ。だから携帯電話自体は革命的ではない。ただ,新しいITに対応するデジタルコンテンツの出現によりこれまでのスタイルが変わったのだ。スタイルが変わるということでは革命的かもしれない。各個人のメイルというコンテンツを有する機能を付加することで携帯電話は革命的なツールになったのかもしれない。出会い系というコンテンツは革命的な事件を引き起こしているかもしれない。特にインターネットを含んだITとデジタルコンテンツが融合することでスタイルが変わっていく。
本稿ではこのデジタルコンテンツについて随想してみたい。
誰もがこれからはデジタルコンテンツが重要な時代であると認識しているだろう。すぐに思いつくのが音楽やライブ,映画のストリーミングであろう。このオリジナルコンテンツを有する企業はもちろんインターネットなどでの配信を計画中である。これは一定の成果をおさめるであろうし,例えば映画館で見ていた映画やレンタルビデオを借りていた映画を家で見たいと思ったときに見ることができるようなスタイルの変化を生むであろう。一方で,野心的な企業やベンチャーはこぞって新しくて魅力的なコンテンツを作成しようと苦心していることだろう。筆者はITに必要な魅力的なコンテンツは,以下の4つであると考える。すなわち,1)真に巨大な情報を有するコンテンツ,2)新しいアイディアを有するコンテンツ,3)マス向けのごくごく限られたコンテンツ,4)ある程度限られたユーザへの限られた分野のコンテンツ,である。
デジタルコンテンツでまず陥る罠はITがなんらかの形でインターネットに関連するために,不特定多数のユーザのためのコンテンツを用意しようとすることであろう。確かにインターネットは不特定多数のユーザが存在するために,あたると大きいかもしれない。しかしながらそのような目的で成功するには上記の1)か3)しかないように思える。マスを意識して構築しているサイトとしては,コンテンツを整理したり,質問に答えたりしてくれるようなポータルサイト,情報を整理するためのサイトなどがある。しかしながら,それらの多くのサイトは存在するコンテンツの量が中途半端なのとメンテナンスをする人材が少ないためにサイト自体が中途半端になっている。成功するためには,YahooやAOLといった規模が必要であると思う。
マスを対称として成功するにはもう一つの方法はごくごく限定した情報を提供する方法だ。先日,ニューヨーク,ワシントンDCで悲惨なテロがあった。地上波のニュースを見た人も多かったと思うが,海外などにいる人はインターネット上にあるビデオストリーミング(例えばhttp://www.nhk.or.jp/news/)で日本語のニュースを見た人も多いだろう。数年前までは海外ではこのように簡単には日本のニュースを見ることができなかった。貿易センターを写したwebカメラも大活躍だったはずだ(例えばhttp://hudsonriverlive.com/)。このような限定されたコンテンツはマスを引き付ける。しかしながらもちろん,常時マスを引き付けるコンテンツの発見はなかなか難しくて動的な要素が多い。そのためにこのようなコンテンツの成功は非常に難しいと言える。
一方,優れた新しいアイディアはどんな分野でも成功する。デジタルコンテンツの分野ではなおさらのことだ。オークションコンテンツを有するサイトはもちろんのこと,最近では地図に対応した衛星写真を提供するGlobeExplore社(http://www.globexplorer.com/)のようなコンテンツを用意しているところがあるが,これらはその分野に属するであろう。これは当たるとヒットするが,もちろん優れた新しいアイディアというのはすぐには見つからない。
最後の魅力的なコンテンツとして見落としがちなのが,ごく特定のユーザに対する特定のコンテンツである。見落としがちな理由は先に述べたように,ITがインターネットに強く関係があり,インターネットには多数のユーザが存在するために,最初から特定のユーザを対象とすることをなかなか行わないためである。映画で例えるならば,非常に多くの映画コンテンツを揃えて,映画ファンすべてを惹きつけるようなサイトを構築するのではなくて,フランス映画専門の限られたサイトをフランス映画好きなユーザに提供するのである。いわゆるニッチと呼ばれるものかもしれないが,デジタルコンテンツには今最も重要であると感じている。しかもこのコンテンツがITでは非常に需要があり,最も容易に提供できるのではないだろうか。それは,このコンテンツをもとに提供する側が差別化をはかれるからだ。ある日僕らはカフェにでかける。コーヒーを飲むこともそうなんだけど,そこのカフェでしかやっていないフランス映画を見るためだ。自分のコンピュータを持参して,無線Lanでネットワーク接続してやるとお気に入りのコーヒーとセンスの良い映画が自分の好きなときに見ることができるのだ。このような差別化を図ることでカフェには新たな付加価値が生まれる。そしてその付加価値を生んでいるのはデジタルコンテンツなのだ。ニューヨークまでの飛行機での出張は苦痛以外のなにものでもなかった。でも今はそうではない。ネットワークにつながっているので,飛行機の中でメイルも読めるし,仕事もできる。上映されている映画はほぼ無限だ。もちろん乗った飛行機のみで見ることのできる映画もある。ゲームも豊富だ。機内の乗客とネットワーク対戦さえできる。時間があまってしょうがないという状態ではなくて,忙しくてしょうがない。後はエコノミーの席が広くなるだけだ。
デジタルコンテンツを考えるときにこれまでのブランド的な考えは通じない。
映画館という建物の中には映画というコンテンツがある。テレビや雑誌には封切られた最新作の宣伝がいっぱいある。なのに見終わったらがっかりしてそのコンテンツに満足しないことがある。何故だろう。自動車のショールームには自動車というコンテンツがある。自動車を買おうと思っているのに予算に見合った欲しい自動車がない。何故だろう。大学という場には授業というコンテンツがある。何のための何のコンテンツなのかわからないのに何故このコンテンツと接しているのか自分自身がわからなくなることがある。コンテンツが終了しても,結局,何のコンテンツだったのか憶えていないことがしばしばだ。何故だろう。
これまではある程度ブランドが重要であった。ブランドイメージが確立されていればその商品の持つ絶対的な価値については大した問題ではない。長期的に見れば中身のともなわないブランドはイメージの崩壊につながるのであろうが,中短期的にはブランドイメージは非常に重要だ。本当に車の価値がわかって車を購入する人がいるのか,本当に先生の質を判断して大学を選択する人がいるだろうか。それほど多くないはずだ。何となく自分の中にあるブランドイメージで何となく手にしているのだ。
特定ユーザへの特定コンテンツでは,このようなブランド先行型はなかなか難しい。その理由は2つある。一つは,そもそも興味のあるユーザへのコンテンツなので,ある程度の実力を有するコンテンツでなければ注目されないためである。もう一つの理由はこれまでのブランドイメージは製造者やマスメディアに操作された要素が大いにあったが,ITではユーザによって容易に覆されてしまうことがしばしばあるからである。2ちゃんねる(http://www.2ch.net)などといった匿名掲示版をご存知だろうか。ここではいろいろな項目が不特定多数から掲示される。もちろん誹謗中傷や嘘の情報もあるのだが,企業側がいくら中身や嘘を隠していてもネットワークにつながる多数のユーザによりそれらが暴露されてしまい,ブランドイメージが急激に崩壊してしまうことがあるのだ。だからコンテンツを用意する側は本当のコンテンツを用意する必要がある。
さらに,この分野でのデジタルコンテンツを広く配布するための大きな鍵は,ユーザがコンテンツを選択するのではなくて,コンテンツ提供側が強制的にユーザにコンテンツを押し付けることだと思う。実際のところユーザは現在のところ情報に情報の海の中でアップアップしている。そのために検索エンジンなどがあるのだが,それを使ってみたところでいくつもの情報が提供されるのには変わりがない。接するべきコンテンツの目標があるのであればまだ良いのだが,時間つぶしがしたいんだけどなあぐらいの状況の際は悲惨である。格闘技ならここからすべてがわかりますというのではなくて,この力道山を見よとか,今日の桜庭とか言ってもらいたいものである。××映画ならこれを見よ,××音楽ならこれを聴けと言ってもらいたいのだ。見たい映画は勝手に探すから。
そうなってくると本当に文字通り中身のあるコンテンツを用意する必要がある。特定のユーザのための特定なコンテンツ。おのずと作業はデジタルではなくて知性や感情,感性を使ったアナログな作業になるであろう。すべてのメディアはアトム(物質)からビット(情報)になると予言したのはMITのニコラス・ネグロポンテだが,ビットの道具を利用できるようになったら,次はアナログが重要になってきたのは非常に興味深い。しかも,デジタルはすぐにコピーできるのだが,アナログはコピーが難しいし,コピーをしても劣化してしまうのだ。
大学はどうなるであろうか?大学も遅かれ早かれITに対応したデジタルコンテンツを用意しなければならなくなるであろう。日本の大学はブランドで選ぶと言われている。しかしながら,すでに述べたように,デジタルコンテンツはコンテンツ(中身)が必要である。さらに,成功の鍵は不特定多数を相手にするのではなくて,特定に限られたコンテンツを提供することにある。すなわちこれまでのように百貨店的なコンテンツではなくて,その大学でしか得られないようなコンテンツを精力的に作成する必要があるのだ。教員も優れたコンテンツを用意しなければならない。

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