「同志社ルネサンス」と「旅する知」としての⼤学

はじめに

 

「ルネサンス(Renaissance)」は、フランス語で「再⽣」や「復興」を意味する⾔葉である。特に⻄洋史においては、14世紀から16世紀にかけてヨーロッパで起こった⽂化‧芸術‧学問の⼤変⾰運動を指す。「ルネサンス」とは単なる「過去への回帰」ではなく、過去の知と精神を新たに捉え直して、未来を切り拓く創造的な再⽣の動きを意味する。

「同志社ルネサンス」とは、新島襄が創⽴した同志社の原点に⽴ち返りながらも、現代社会や未来にふさわしい新たな同志社を創造していく運動である。⾔い換えれば、「原点(建学の精神)に学びつつ、それを現代において再定義し、同志社を次なる段階へと進化させる」という意志とビジョンを込めたものである。同志社は、今もなお輝いている。だが、私たちはそこで歩みを⽌めるわけにはいかない。今を誇りにしながら、未来に向けて、さらに輝かなければならない。——それが『同志社ルネサンス』の精神である。

同志社⼤学は、新島襄が掲げた「良⼼を⼿腕に運⽤する⼈物の養成」という建学の精神のもと、⽇本の近代教育に⾰新をもたらしてきた。今なお、⾼い教育‧研究の⽔準を維持し、多様な分野で社会に貢献する⼈材を輩出し続けている。

それにもかかわらず、「さらに輝く」とはどういう意味か。それは、過去の栄光に安住するのではなく、変化する時代に応答し、未来に向けて⾃らを更新し続ける姿勢を⽰す⾔葉である。今⽇の社会は急速な技術⾰新、地球規模の課題、多様性の拡⼤といった⼤きな変化の中にある。今こそ同志社が、社会変⾰に貢献する知と実践の拠点として、より⼤きな存在感を発揮する必要があるのである。

同志社ルネサンスは、「新島襄の精神を原点として、同志社をもう⼀度新しく創り出す」ことを意味するビジョンである。「ルネサンス(再⽣‧復興)」という⾔葉は、単なる回帰ではなく、原点に⽴ち返りながらも、新しい価値を創造していく運動を⽰している。

このビジョンは以下のような柱を含む:

原点回帰と未来志向の統合:新島襄の理念に⽴ち返りつつ、次代に向けた教育‧研究‧社会貢献の在り⽅を再設計する。

学際的で国際的な知の拠点の形成:既存の枠にとらわれず、AI、⽣命科学、環境、平和などのグローバル課題に応答できる教育‧研究体制を構築する。

 

「良⼼」のアップデート:倫理や良⼼の意味を、現代社会に即した形で再定義し、「実践する知」として社会と共有する。

「同志社ルネサンス」というビジョンを掲げることは、次のような意味を持つ。すなわち、

⾃⼰⾰新の決意表明:同志社はすでに評価されている⼤学であるが、「このままでいい」と思った瞬間から退化が始まる。だからこそ、変わり続ける意志を⽰す必要がある。また、「同志社ルネサンス」は、⼤学が社会に対してどのように責任を果たすか、どのように信頼を築いていくかを問い直す試みでもある。さらに、学⽣、教職員、校友、市⺠といった多様な⼈々と共に、新しい同志社をつくるための旗印となる。

同志社⼤学は、これからも「輝く⼤学」であり続けるために、「同志社ルネサンス」という挑戦を選んだ。それは、伝統を誇るだけでなく、未来に責任をもつ⼤学としての、新たな⼀歩なのである。

 

ルネサンス時代の⼤学と「旅する知」

ルネサンスはどんな時代だったのであろうか。先に述べた通り、「ルネサンス(Renaissance)」は、14世紀から16世紀にかけてヨーロッパで起こった⽂化‧芸術‧学問の⼤変⾰運動を指す。この歴史的なルネサンスでは、ギリシャ‧ローマ時代の古典⽂化の再評価(原点回帰)と⼈間性の尊重(ヒューマニズム)の台頭が起こり、美術、科学、哲学、宗教、建築などの分野に⼤きな変⾰をもたらした。「⼤学が、神のための学びの場から、⼈間と社会のための創造の場へと変化し始めた」時代とも⾔える。

ボローニャ⼤学は、学⽣のギルド(ユニベルシタス)から発展したという独特な起源を持つ:

学⽣主導:運営権と⾃治権を学⽣が持っていた

教授への権限:学⽣が教授を解雇したり、講義内容に要求を出すことができた

学⻑選出:学⻑も学⽣の中から選ばれていた

中世‧ルネサンス期において「旅する知」こそが、⼤学そのものでもあった。教師も学⽣も「旅をして学ぶ」のが当たり前だった。学⽣や教授たちは、パリ、ボローニャ、オックスフォード、プラハなど、⼤学都市を横断して学び合った。「知」は都市ごとに固定されるものではなく、⾃由に移動し、議論され、影響し合うネットワークとして存在していたのである。

「流動性」こそが⼤学の⽣命線。特定の国や教義にとらわれない「普遍的な知」「国際的な対話」が、⼤学の本質とされていた。これは、現代でいうグローバル⼤学‧学際知‧リベラルアーツの原型である。

中世⼤学の最も特徴的な側⾯の⼀つが、「旅する知」の⽂化であった。中世ラテン語で「放浪聖職者Clerici Vagantes」を意味し、知識を求めて都市から都市へと移動する学⽣や教師を指していた。彼らは「学問、そしてさらなる冒険を求めて町から町へ移動する」存在であった。

(ゴリアルド):10世紀から13世紀中期にかけて活動した放浪学⽣集団。彼らは「知識と快楽の両⽅を求めて故郷から遠く旅をした」⼈々であった。

中世⼤学の「旅する知」の構造

知識の移動性:中世⼤学の真の始まりは、「特定の分野の師匠を求めて旅をする⼈々、あるいは師匠を都市から都市へと追いかける⼈々」である放浪学者の存在にあった。

教師と学⽣の流動性:学⽣は評判の⾼い教師を求めて各地を移動し、教師も⼤学間で競争があり、より良い条件を求めて移動した。ペテロ‧アベラルドの学⽣たちは、彼をメルン、コルベイユ、パリまで追いかけた記録がある。

Studium  Generale(総合学府):ボローニャ、パリなどは「studium  generale」として、

「あらゆる場所から学⽣を受け⼊れた」機関であった。これは地域を超えた知識の流通拠点であった。

Ius Ubique Docendi(どこでも教える権利):教皇勅書により確⽴された「どこでも教える権利」により、⼀つの⼤学で学位を取得した者は、ヨーロッパ中どこでも教えることができた。これはまさに「旅する知」の制度的保証であった。

 

現代への⽰唆:「旅する知」の精神

中世の「universitas」が⽰す「旅する知」の精神は以下の通りである:

知識の普遍性:国境や地域を超えて共有される知識

学習共同体の流動性:固定された場所に依存しない学習組織

知的探求の⾃由:権威や既成概念に縛られない探求精神

⽂化的交流:異なる背景を持つ⼈々の知的交流

 

19世紀初頭のフンボルト⼤学改⾰は、「研究と教育の⼀致」という⾰命的概念を提⽰し、現代⼤学の基礎を築いた。この理念により、⼤学が単なる知識伝達機関から知識創造機関へ転換し、学⽣が受動的受講者から能動的探究者へ発展し、近代国⺠国家における知的エリート養成システムが確⽴された。

しかし、現代社会では「研究と教育の⼀致」だけでは不⼗分になっている。社会的課題の複雑化により、気候変動、格差拡⼤、AI倫理など、学際的で実践的な解決策が必要となり、象⽛の塔的な研究では現実問題に対応できない。また、知識社会の要請により、理論知と実践知の統合が不可⽋となり、⼤学が社会変⾰の拠点として機能することへの期待が⾼まっている。

現代⼤学の新たなパラダイムとして、「研究‧教育‧社会実践」の三位⼀体構造が提唱されている。この三要素が相互作⽤することで、学びの実質化(理論が実践と結びつくことで深い理解が⽣まれる)、研究の社会化(社会のニーズが研究⽅向を導く)、社会の知的レベル向上(⼤学知が社会全体に還元される)が実現される。

現代において、国境を越えた知の交流を促進するためには、トランスナショナルな知識空間の構築が不可欠である。その実現に向けては、以下のような多角的な取り組みが求められる。

まず、物理的移動の復活が重要である。交換留学プログラムの拡充、国際共同学位制度の推進、さらに複数の大学で学位を取得できる仕組みの構築により、学生や研究者の国際的な往来を活性化することができる。

次に、デジタル移動の活用が鍵を握る。オンライン国際授業の常態化、バーチャル国際ゼミナールの開催、そしてデジタル図書館や研究データベースの共有体制の整備など、物理的距離を越えた知の移動を可能にする仕組みが求められる。

さらに、知的移動の促進も欠かせない。学際的な国際研究プロジェクトへの参画、国際会議やシンポジウムの定期開催、多文化共生を体現するキャンパスづくりを通じて、知の多様性と流動性が高められる。

加えて、**現代版「万国教授権」**の創設も視野に入れるべきである。これは、グローバルに通用する教育資格の国際認定制度、世界各地の大学間における単位互換制度、研究者の国際的な流動性を支援する制度などを包含するものである。

これらの取り組みはすべて、知が国境を越えて旅することを可能にする「旅する知」の現代的再構築に向けた、極めて重要なステップである。

 

結論

 

フンボルトの「研究と教育の⼀致」を超えた「研究‧教育‧社会実践」の三位⼀体構造と、中世的な「移動の⾃由」の現代的復活は、⼤学が21世紀の知識社会において果たすべき役割を明確に⽰している。これは単なる教育制度改⾰ではなく、⼈類の知的発展と社会進歩のための根本的パラダイムシフトといえるであろう。

「同志社ルネサンス」の理念は、このような現代⼤学の新たなあり⽅を先取りするものであり、新島襄の建学精神を現代に活かしながら、未来に向けた⼤学のモデルを提⽰している。「旅する知」の復活は、知識の普遍性と学習共同体の流動性を通じて、真の意味でのグローバル⼤学の実現を可能にするのである。