「旅する知」の実践者としての新島襄

新島襄は、中世ヨーロッパの scholares vagantes(放浪学生)の精神を19世紀の日本において体現した、極めて稀有な存在である。彼がアメリカで乗船した「ワイルド・ローバー号」(Wild Rover)という船名は、まさに「野生の放浪者」を意味し、彼の生涯を象徴する偶然の一致であった。

新島の海外体験は、1864年から1874年にかけての10年間にわたる「知的放浪」として展開された。1864年に函館港からベルリン号で脱国し、翌1865年には上海でワイルド・ローバー号に乗船してボストンに到着した。その後、フィリップス・アカデミーでの準備教育(1865-1867年)、アーモスト大学での学部教育(1867-1870年)、そしてアンドーヴァー神学校での神学修士課程(1870-1874年)を経て、アメリカの大学を正規に卒業した最初の日本人となった。

新島は物理的な旅を行っただけでなく、精神的な旅をも実践した人物である。彼のキリスト教への回心は、単なる宗教的転向ではなく、「旅する知」の核心的体験であった。同志社大学の教育理念によれば、新島は「9年間におよんだ欧米での生活を通して、キリスト教、とくにプロテスタントが文化や国民に与えた精神的感化がいかに巨大であるかを体得して帰国した」のである。そのひとつが「良心」であり、これは「人間の目」ではなく、「神の目」を意識して初めて芽生えるものであった。

1871年、新島は岩倉使節団の通訳として公式に日本の近代化に関与し、知識の国際的移動における重要な役割を果たした。彼が同志社で実践した教育理念は、「旅する知」の制度化そのものであった。西洋のキリスト教精神を日本の教育に移植し、「良心の全身に充満したる丈夫(ますらお)」の育成を目指した。

新島の教育理念には、倜儻不羈(てきとうふき)の精神が貫かれている。これは「才気がすぐれ、独立心が旺盛で、常軌では律しがたい」精神を意味し、中世の “libertas scholastica”(学問の自由)の現代的継承である。また、「外国語を話せるだけでなく、異なる価値観を受け入れ、そこから『何か』を見出せる人を育む」という理念は、中世大学の “studium generale”(全ての地域から学生を受け入れる)の精神を体現している。

「同志社」という名称自体が、「旅する知」の精神を表現している。これは「志を同じくする者が創る結社」を意味し、国境や出身を超えた学問共同体の理念を示している。中世ヨーロッパの “universitas”(学者・学生の共同体)の精神を継承したものである。

新島が掲げた「一国の良心」の育成は、中世の “universitas magistrorum et scholarium”(師弟の学習共同体)の現代的発展形であった。彼は「一つの国を維持するのは決して二・三人の英雄の力ではなく、一国を形作る教育があり、知識があり、品性の高い人々の力によらなければならない」と述べ、「こういう人々が『一国の良心』と言うべき人たち」であるとした。また、「良心の全身に充満したる丈夫(ますらお)の起り来(きた)らん事を」という願いは、「旅する知」の国際的な拡散を象徴している。

新島襄が創始した「旅する知」の精神は、現代においても重要な意義を持っている。明治初期における国際教育の先駆性、東西文化の架け橋としての役割、権威に屈しない自由な学問精神、そして教育を通じた社会変革への責任感は、現代のグローバル教育にも通じる普遍的価値である。

新島襄の実践は、中世ヨーロッパの scholares vagantes から現代のグローバル教育まで貫く、「旅する知」の普遍的価値を証明している。知識の国境を越えた移動、異文化との出会いによる精神的成長、学習共同体の形成、そして社会変革への貢献という要素は、時代を超えて重要な意味を持つ。

新島襄は、文字通り「旅する知」を生きた人物として、日本の近代教育史における最も重要な実践者の一人である。彼の生涯と教育理念は、知識が国境や文化を超えて移動し、新しい価値を創造する力を持つことを、身をもって証明した貴重な事例なのである。