新島襄「旅する知」の実践者としての帰国後の軌跡と影響

はじめに

新島襄(1843-1890)は、単なる教育者や宣教師を超えた、まさに「旅する知」の実践者として、明治日本の近代化に大きな影響を与えた人物である。彼の生涯は、知識の探求と拡散のための継続的な旅路そのものであった。本稿では、新島襄の帰国後における旅行体験と、それを通じた知識の獲得・拡散活動について考察する。

 

安中でのキリスト教伝道

帰国後、新島は故郷の安中で日本初の本格的なキリスト教伝道を開始した。「21歳で渡米しキリスト教徒となり、帰国後父母の住む安中へ帰郷し、キリスト教を伝道した」のである。龍昌寺を借りて説教を行い、後に日本キリスト教団安中教会の設立につながった。この活動は、海外で得た宗教的知識を日本の地方に根付かせる「知識の地域展開」の実践例であった。

 

全国規模の伝道旅行

新島は京都の同志社設立後も、「ほぼ全国を伝道行脚し」た。これらの旅行は、単なる宣教活動ではなく、欧米で学んだ教育理念や近代的思考を日本各地に広める知識拡散活動であった。「京都をはるかに越えて各地に奔走した生涯であった。旅行先の神奈川県大磯で逝くことになったのも、それを象徴している」のである。

 

北海道旅行

1887年の函館・北海道旅行

新島は1887年(明治20年)、妻八重とともに函館を訪れた。この旅行は、かつて脱国した思い出の地を再訪することで、自らの知識獲得の軌跡を振り返る意義深い体験であった。「7月3日に到着した函館で、襄は八重を連れて国外脱出した思い出の埠頭を訪れ、当時のことを話して聞かせた」のである。また、遺愛女学校の宣教師館を訪れ、「外国人宣教師たちと食事をして」おり、これは国際的な教育ネットワークの構築・維持活動でもあった。

 

札幌での女学校開業式参加

同年8月25日、新島夫妻は札幌で「女学校開業式」に参列した。「たまたま札幌に避暑に来ていた新島襄夫妻も参列している」のである。この参加は、女子教育の発展を全国規模で支援する知識のネットワーク形成を示している。

 

津山訪問

1884年(明治17年)8月に、新島襄は津山を訪問した。これは同志社の神学生である馬場種太郎との出会いがきっかけであった。津山伝道所が1884年に設置されており、新島襄はここで馬場種太郎と出会った。馬場種太郎は同志社神学生として「夏季伝道」のため津山に派遣されており、キリスト教伝道者として活動していた。馬場種太郎は「少しも布教〔伝道〕の労を惜しまず、落合、勝山と日夜、東奔西走する」など、津山周辺地域での伝道活動を精力的に行っていた。

 

津山地方では1884年(明治17年)に講義所が設けられた。木庭勝次郎や上代知新により伝道が行われ、同志社の神学生であった馬場種太郎が協力した。新島襄の指導下で、津山を拠点とした美作地方へのキリスト教伝道が組織的に展開された。

 

新島襄は津山以外にも岡山県内を広く訪問しており、特に1880年(明治13年)2月17-20日には備中高梁を訪問し、講演会を開催した(初日約300人、2日目約400人が参加)。落合、勝山では馬場種太郎の活動を通じて間接的に影響を与え、岡山市では金森通倫を通じてキリスト教伝道のネットワークを構築した。

 

新島襄の津山訪問は、彼の「旅する知」の実践の一環として、以下の重要な意味を持っている:

 

地方伝道の組織化:同志社の神学生を各地に派遣し、キリスト教伝道の全国的ネットワークを構築

知識の地域展開:欧米で学んだキリスト教思想を日本の地方都市に伝播

人材育成:馬場種太郎のような地方伝道者の指導・支援

新島襄の津山訪問は、彼の全国的な伝道旅行の一部として位置づけられ、明治期のキリスト教伝道史において重要な足跡を残している。

 

死に至るまでの知識拡散活動

1890年1月、新島は群馬での募金活動中に体調を崩し、神奈川県大磯で逝去した。「旅行先の神奈川県大磯で逝くことになったのも、それを象徴している」のである。文字通り最後まで「旅する知」を実践し続けた生涯であった。

 

結論:新島襄の「旅する知」の現代的意義

新島襄の「旅する知」の実践は、以下の点で現代にも通じる重要な示唆を与えている:

 

知識の境界越え:国境、宗教、文化の境界を越えた知識の探求と統合

実践的知識応用:獲得した知識を具体的な社会改革に活用

知識の民主化:エリート層に限定されがちな知識を広く社会に拡散

継続的学習:生涯を通じた知識の更新と再構築

ネットワーク形成:知識を媒介とした国際的・全国的なネットワーク構築

新島襄は、単なる知識の消費者ではなく、積極的に知識を探求し、実践し、拡散する「旅する知」の真の実践者であった。彼の生涯は、知識が単なる個人の資産ではなく、社会全体の発展に寄与する公共財であることを実証した、明治日本における知識社会の先駆的モデルといえるのである。