はじめに
新島襄は京都の同志社設立後も、ほぼ全国を伝道行脚した。津山はその訪問地の一つであり、馬場種太郎がキーパーソンとして重要な役割を果たしたのである。
1884年(明治17年)8月、新島襄は津山を訪問した。これは同志社の神学生である馬場種太郎との出会いがきっかけであった。津山伝道所が1884年に設置されており、新島襄はここで馬場種太郎と出会ったのである。馬場種太郎は同志社神学生として「夏季伝道」のため津山に派遣されており、キリスト教伝道者として活動していた。馬場種太郎は「少しも布教〔伝道〕の労を惜しまず、落合、勝山と日夜、東奔西走する」など、津山周辺地域での伝道活動を精力的に行っていたのである。
津山地方では1884年(明治17年)に講義所が設けられた。木庭勝次郎や上代知新により伝道が行われ、同志社の神学生であった馬場種太郎が協力した。新島襄の指導下で、津山を拠点とした美作地方へのキリスト教伝道が組織的に展開されたのである。
新島襄は津山以外にも岡山県内を広く訪問しており、特に1880年(明治13年)2月17-20日には備中高梁を訪問し、講演会を開催した(初日約300人、2日目約400人が参加)。落合、勝山では馬場種太郎の活動を通じて間接的に影響を与え、岡山市では金森通倫を通じてキリスト教伝道のネットワークを構築したのである。
新島襄の津山訪問は、彼の「旅する知」の実践の一環として、以下の重要な意味を持っている。まず、地方伝道の組織化である。同志社の神学生を各地に派遣し、キリスト教伝道の全国的ネットワークを構築したのである。次に、知識の地域展開である。欧米で学んだキリスト教思想を日本の地方都市に伝播させたのである。そして、人材育成である。馬場種太郎のような地方伝道者の指導・支援を行ったのである。新島襄の津山訪問は、彼の全国的な伝道旅行の一部として位置づけられ、明治期のキリスト教伝道史において重要な足跡を残しているのである。
馬場種太郎
馬場種太郎は、明治時代に活躍したキリスト教伝道師で、同志社英学校の卒業生である。また、竹内種太郎とも呼ばれており、これは後に竹内家に養子として入籍したためと考えられる。
1885年(明治18年)6月に同志社英学校邦語神学科を卒業し、同志社在学中に新島襄の教えを受け、深い影響を受けたのである。
馬場は1863年11月11日に岡山県牛窓町(現瀬戸内市牛窓)に生まれ、長じて県内香登に住む叔父(馬場筆吉)に引き取られた。同地ではキリスト教に触れる機会があり、1881年ころに岡山教会(金森通倫牧師)でJ・H・ペティー(岡山在住のアメリカン・ボード宣教師)から洗礼を受けたのである。このように金森通倫とは非常に深いつながりが見られる。
新島襄の推薦により、死亡した辻元伝道師の後任として札幌に派遣された。1888年(明治21年)頃から札幌独立教会(後の札幌基督教会)の伝道師として活動し、牧師の大島正健とともに、札幌基督教会の最も活発な時期を築いた。1888年(明治21年)から1893年(明治26年)頃まで活動し、札幌基督教会の発展に大きく貢献したのである。竹内文と結婚し、2人の男児(俊彦と謙)をもうけた。
新島襄は馬場種太郎を「同志社系の伝道者として札幌伝道を開始するのに最適の意中の人物」と評価し、新島襄から直接推薦を受けて札幌に派遣されたのである。新島襄とは書簡のやり取りがあり、現在も同志社大学に資料が保存されている。
札幌独立キリスト教会と新島襄の最も重要な関係は、大島正健の按手礼問題を通じて形成された。大島正健は札幌独立キリスト教会の実質的な初代牧師でありながら、正式な按手礼を受けていなかった。そのため、洗礼や聖餐の儀式を司ることについて、他の教派から批判を受けていた。これは独立教会の存立にとって深刻な問題であった。1888年(明治21年)、この問題の解決策として、新島襄と植村正らの好意により、大島正健は按手礼を受けることができたのである。
新島襄は札幌独立キリスト教会の要請に応じて、同志社出身の馬場(竹内)種太郎を伝道師として派遣した。馬場は恩師新島の推薦を受けて札幌に赴任し、大島正健を支援し、教会の発展に貢献した。「信者一同大満足」と評価されるほど、札幌独立キリスト教会と新島の期待に十分応える働きをしたのである。
新島襄は札幌独立キリスト教会の「自由主義」を支持する立場から、教会の諸問題に助言を行った。札幌独立キリスト教会は、教派から独立した日本初の独立教会として歴史的意義を持っていた。新島襄はこの教会の独立性と自主性を理解し、支援したのである。
新島襄と札幌独立キリスト教会の関係は、大島正健の按手礼問題を契機に始まり、人材派遣、教会運営への助言、精神的支援など、多面的で継続的な関係に発展した。この関係は、教派を超えた協力と、日本的キリスト教の発展を支援する新島襄の広い視野と愛の実践を示す重要な歴史的事例として位置づけられるのである。
竹内文
馬場種太郎の妻は、竹内文(たけうち あや)という女性である。竹内文は1868年、津山市(旧美作国)で生まれた。1884年に神戸英和女学校(現在の神戸女学院)に入学し、翌年キリスト教の洗礼を受けている。
1889年に札幌独立教会で伝道師を務めていた馬場種太郎と結婚し、札幌で新婚生活を始めた。1893年、種太郎が病没し、文さんは二人の子どもを抱えて未亡人となったのである。1894年に津山へ戻り、自宅で裁縫塾を開いた後、1897年には女学(女子教育)の私塾を設立し、英語や体操、賛美歌などを教えた。1899年には学校として認可された「淑徳館」を運営し、女子教育に尽力した。子育てと教育を両立させながら、教壇に立っていたのである。
1892年に京都で長男の謙さん(のぶる)を出産した。謙さんは後に津山→東京へ移り、早稲田大学理工学部へ進んでいる。竹内文は1921年に没している。竹内文さんは、馬場種太郎没後も教育に情熱を注ぎ、津山で女性たちの教育・自立に大きく貢献した人物である。彼女の活動は地域の教育史においても重要な役割を果たしているのである。
竹内文は1897年(明治30年)に津山で女学塾を始め、まずは裁縫中心の私塾として開校した。その翌年、1898年に文部省から「淑徳館」として正式に認可を受けたのである。裁縫を主軸としながらも、以下のような幅広い教育内容を提供していた。毎朝の賛美歌、体操にはダンスを導入、家事や育児の授業時間を確保、英語も竹内文自身が担当するなど、伝統と実用を融合した先進的なカリキュラムであった。1901年(明治34年)、薄田泣菫(明治期の女性歌人)が励ましに訪れるほどの評判で、地域の教育活動に大きく貢献したのである。1901年に県立津山女学校(現・公立高等女学校)が設立され、1903年(明治36年)に開校した。これに伴い、淑徳館は閉校し、竹内文は東京へ移ったのである。竹内文は1921年(大正10年)にこの世を去った。竹内文が設立・運営した淑徳館は、津山の女子教育史において重要な存在であり、教育内容の幅広さや地域からの評価は非常に高かったと言えるのである。