今週末は、福井に行くので少々、勉強中。
I. 序論:新島襄と福井の関係性への問い
新島襄(1843-1890)は、幕末から明治初期にかけて日本の近代化に多大な貢献をした傑出した教育者であり、キリスト教思想家である。彼は国禁を犯して渡米し、西洋の学問とキリスト教を深く学んだ後、帰国して同志社英学校(現同志社大学)を創設した。新島が目指したのは、単なる知識の伝達に留まらず、「一国の良心」を育む教育であり、その理念はキリスト教主義、自由主義、国際主義を柱としていた。彼の教育は、個人の人格形成を重視し、社会全体の発展に寄与する人材の育成を目指すものであった。
一方、幕末期の福井藩は、松平春嶽のもと、横井小楠や橋本左内といった優れた人材を輩出し、洋学の導入や海外への人材派遣に積極的に取り組んだ先進的な藩として知られる。明治維新後も、福井県は教育改革において重要な役割を担い、近代化の波の中で独自の道を模索していた。
本報告は、このような歴史的背景を持つ新島襄と福井藩・福井県との間に存在した歴史的な関係性を多角的に考察することを目的とする。直接的な交流の有無、間接的な影響、そして関連する史実の誤解を解消することで、両者の関係をより正確に位置づけることを試みる。
II. 福井藩の洋学・海外教育への先進的取り組み
幕末期の福井藩は、日本の近代化において特に教育分野で先駆的な役割を果たした藩の一つである。江戸時代後半には、福井藩を含む一部の藩が、藩の改革に必要な知識を国内外に求め、優秀な人材育成に注力していたことが示されている 1。新時代の学問の必要性を強く認識していた福井藩は、積極的な洋学教育を行う意志と能力を備えていた数少ない藩の一つであった 2。これは、明治政府の基本方針となった五箇条の誓文(1868年)が海外の進んだ知識を学ぶことを掲げる以前からの動きであり、福井藩の先見性を示すものである 1。
福井藩は、海外への人材派遣においても先進的であった。1867年(慶応3年)に留学が解禁されると、翌年には明道館や長崎で優秀な成績を収めた日下部太郎を福井藩初の留学生としてアメリカに派遣した 3。日下部太郎はニュージャージー州のラトガース大学に入学し、首席で卒業するほどの極めて優秀な学業成績を収めた 3。これは、福井藩が単に洋学を導入するだけでなく、実践的な海外教育を通じて国際的な視野を持つ人材を育成しようとする強い意図があったことを明確に示している。
明治初期には、福井藩士・日下部太郎との縁をきっかけに、アメリカ人教師ウィリアム・E・グリフィスが福井に招かれ、若者たちに西洋の学問を教えた 4。グリフィスは福井における科学教育の礎を築いたとされており、彼の功績を記念する施設も整備されている 4。これは、福井が積極的に外国人教師を招き、西洋の知識と教育システムを導入しようとした具体的な取り組みの証左であり、その開明的な姿勢を裏付けるものである。
福井藩の洋学・海外教育への先進的な取り組みは、新島襄のような海外で学んだ教育者が日本で近代教育を推進する上で、潜在的な共鳴関係を築く土壌となったと考えられる。福井が積極的に西洋の知識や人材を求めていたことは、新島が目指した国際的な視野を持つ教育理念と方向性を共有していたことを示唆する。新島襄自身も国禁を犯してまで渡米し、西洋の教育とキリスト教を深く学んだ人物である。彼が帰国後に設立した同志社も、西洋の学問とキリスト教主義に基づく教育を柱としていた。福井藩の洋学受容と海外教育への積極性は、新島が日本にもたらそうとした教育の方向性と深く合致している。これは直接的な協力関係を示すものではないが、新島が日本全国に協力を求めた際に、福井のような先進的な地域が彼の理念に共感しやすい素地があったことを示唆する。この共通の方向性は、後述する新島襄の福井訪問や同志社分校設立構想へと繋がる背景を形成している。福井が単なる地方藩ではなく、近代化への強い意志を持っていたからこそ、新島のような中央の教育改革者との接点が生まれた可能性があり、これは新島が全国的なネットワークを構築する上で、福井が重要な潜在的パートナーであったことを示している。
表2:福井藩の洋学・海外教育関連主要人物と貢献
人物名 | 貢献概要 | 関連時期 |
日下部太郎 | 福井藩初の海外留学生(アメリカ、ラトガース大学首席卒業) | 1867年(慶応3年)以降 |
ウィリアム・E・グリフィス | 福井に招かれたアメリカ人教師、科学教育の礎を築く | 明治初期 |
III. 新島襄と福井の直接的な交流
新島襄と福井との最も明確な直接的接点は、福井出身の自由民権運動家であり、後に政治家となる杉田定一との交流に見出すことができる。
1883年(明治16年)8月、新島襄は大学設立のための協力者を募る目的で福井を訪れた際に、杉田定一とその父・仙十郎と会談している 5。この時、杉田定一と仙十郎は、キリスト教を通じて社会改良を目指す新島の理念に好意的であったと記録されている 5。この会談は、新島が同志社設立に向けた全国的な支援基盤を模索する中で、福井の有力者との連携を試みたことを示唆している。新島が大学設立に際して全国を巡り協力者を求めていた中で、福井の杉田家がその協力者の一員となったことは、新島の活動が京都に限定されず、全国的な広がりを持っていたことを示している。杉田定一が福井の豪農出身であり、後に国会議員となる人物であること 6 を考慮すると、新島が福井の地で得た人脈は、単なる地方の支援者にとどまらず、彼の教育事業にとって重要な意味を持っていた可能性がある。これは、福井が新島の全国的な教育改革構想における重要な拠点の一つとなり得たことを示唆している。
その後も新島と杉田定一の間には信頼関係が継続していたことが、1887年(明治20年)12月14日に杉田定一がロンドンから新島襄に宛てた書簡から明らかである 5。この書簡では、杉田の妻・鈴が京都で英学を学ぶために新島から配慮を受けていることに触れ、継続的な支援を依頼している 5。これは、新島が杉田家、特に妻の鈴の教育熱心な姿勢を理解し、個人的な支援を行っていたことを示しており、単なる形式的な関係を超えた深い交流があったことを裏付けている。杉田家が新島の「キリスト教によって社会改良をめざす」理念に好意的であったという記述 5 は、福井の知識人層が単に西洋の技術や知識だけでなく、その根底にある思想や精神性にも関心を抱いていたことを示している。これは、新島が目指した「一国の良心」を育む教育が、福井の先進的な知識人たちに深く共鳴した証拠であり、両者の関係が単なる利害関係を超えた、理念的な結びつきを持っていたことを示唆する。
新島襄の死後ではあるが、福井県内において同志社系の学校設立構想が存在したことが示唆されている 7。具体的には、伝道が難しい福井市に学校を設立し、同志社に生徒を送り出すという「同志社分校設立伺書」がまとめられ、新島に相談に行くまでに進展していた 7。しかし、この計画は頓挫し、後ろ盾であった新島が亡くなったことも影響し、福井県内に同志社系(会衆派)教会は見つからなかったとされている 7。これは、福井側からの同志社との連携への強い意欲があった一方で、様々な要因により実現には至らなかったという重要な歴史的事実である。
IV. 新島襄と福井を繋ぐ間接的な関係性
新島襄と福井の関係性は、直接的な交流だけでなく、同志社の教育理念を通じて間接的な繋がりも存在した。
福井藩が幕末から洋学や海外教育に積極的であった(前述のII章参照)という背景を考慮すると、福井県出身の学生が同志社のようなキリスト教主義・国際主義を掲げる学校に惹かれ、そこで新島の理念を深く学ぶ土壌があったと考えられる。これは、福井の教育的先進性が、新島の理念を受け入れる素地を提供し、結果として福井出身者が同志社で学び、社会に貢献するという間接的な関係性を生み出した可能性を示唆する。
新島襄の教育理念は、キリスト教主義、自由主義、国際主義を基盤とし、「一国の良心」を育成することを目指していた 11。彼は欧米文化の根底にキリスト教があることに気づき、キリスト教を日本に根付かせることが近代国家建設に不可欠であると確信していた 13。また、アメリカでの経験から、近代国家の建設は「人をつくること」にあると結論づけていた 14。福井藩は、幕末から明治初期にかけて洋学を積極的に導入し、海外留学を推進するなど、先進的な教育政策を進めていた(前述のII章参照)。新島襄の教育理念が直接的に福井県の教育政策に影響を与えたという明確な証拠は見当たらないものの、福井が目指した西洋文明の受容と人材育成の方向性は、新島が提唱した近代教育の理想と多くの点で共通していた。福井の教育関係者や知識人層は、新島のような人物の思想や同志社の教育実践から、間接的な影響や示唆を受けていた可能性は十分に考えられる。
V. 関連する史跡と誤解の解消
新島襄と福井の関係性を正確に理解するためには、関連する史実の誤解を解消し、史跡の分布を把握することが重要である。
一部の文献には、新島襄が脱国するために箱館(函館)で乗り込んだ船が「福井藩の洋式船」であったという記述が見られるが、これは「大きな誤り」が含まれていると指摘されている 15。正確な経緯としては、新島襄は1864年(元治元年)6月、国禁を犯してアメリカへ密航を企て、箱館から小舟に乗り込み、アメリカ商船ベルリン号(またはコロラド号)に乗り込んだ 14。彼は函館で知り合った沢辺琢磨や福士宇之吉(後の成豊)の援助を受けて脱国に成功した 17。「快風丸」という船も新島研究の文脈で調査されてきたが、これは彼が以前に乗船した船であり、密出国に使用された船ではない 15。したがって、新島襄の密出国に福井藩の洋式船が直接関与したという記述は誤りである。
新島襄に関連する主要な史跡は、福井県内には確認されていない。彼の生涯における重要な地点には、以下のような場所がある。
- 函館(北海道): 1864年に密出国を企てた地であり、新島襄ブロンズ像や海外渡航の地碑が建立されている 16。
- 大磯(神奈川県): 1890年に47歳でその生涯を閉じた終焉の地であり、石碑が建てられている 20。
- 安中(群馬県): 新島襄の生誕地であり、旧宅が移築改修され、遺品や関係書類が展示されている 21。
- 高梁(岡山県): 草創期のキリスト教会史跡があり、新島襄との関連が紹介されている 24。
福井県内には「福井県ふるさと文学館」のような施設が存在するが 25、これは新島襄に特化した史跡や記念施設ではない。新島襄の福井訪問(1883年)に関する記念碑や特定の史跡は、提供された資料からは確認できない。
新島襄の主要な史跡が福井県外に集中しているという事実は、彼と福井の関係が、個人的な交流や理念的な共鳴といった「間接的・非物理的」な側面が中心であり、彼の人生や事業の「物理的な拠点」ではなかったことを強く示唆している。この史跡の地理的分布は、新島襄の人生における主要な活動拠点や転換点が福井ではなかったことを明確に示している。これは、新島と福井の関係が、杉田定一との交流(III章)や福井藩の先進的な教育姿勢(II章)といった「人脈」や「理念の共鳴」に重きが置かれ、物理的な「活動拠点」や「ゆかりの地」としての関係性は薄かったことを裏付けている。この事実は、新島と福井の関係性を評価する上で、その性質を正確に理解するための重要な要素となる。また、「福井藩の洋式船」に関する誤解の指摘 15 は、歴史研究において根拠の薄い情報が流布する危険性を示唆している。この誤解を訂正することは、新島襄と福井の関係性を正確に理解する上で不可欠であり、本報告の歴史的厳密性を担保する上で重要な役割を果たす。
VI. 結論:新島襄と福井の関係性の総括
新島襄と福井の関係性は、彼の生涯において中心的なものではなかったものの、いくつかの重要な接点が存在した。最も特筆すべきは、新島が同志社設立の協力者を求めて福井を訪れた際に、杉田定一とその家族との間で築かれた信頼関係である。この交流は、新島が全国的な視野で教育事業を進めていたこと、そして福井の有力者が彼の理念に共感し、個人的な支援を行ったことを示している。杉田定一との関係は、新島が単に京都に留まらず、全国的なネットワークを構築しようとしていた証左であり、福井がその重要な一角を担っていたことを物語る。
また、福井藩が幕末から洋学導入や海外留学に積極的に取り組んでいたという歴史的背景は、新島が提唱した近代教育の理念と共通の方向性を持っていた。福井達雨氏のような同志社出身者が社会貢献を果たす事例は、新島が築いた教育機関が、特定の地域に限定されない広範な影響力を持ち、福井出身者を含む多くの人々に「一国の良心」としての役割を果たすよう促した間接的な証左である。これは、福井の教育的先進性が、新島の理念を受け入れる素地を提供し、結果として福井出身者が同志社で学び、社会に貢献するという間接的な関係性を生み出した可能性を示唆している。
新島襄は福井の教育史において、直接的な政策立案者や機関の創設者として名を残したわけではない。しかし、彼の思想や同志社の存在は、福井が目指した近代化と人材育成の方向性と深く共鳴し、間接的ながらもその教育的土壌に影響を与えたと考えられる。特に、福井が西洋の知識や思想を積極的に受容しようとする中で、新島のような人物の存在は、その精神的・思想的支柱となり得た可能性がある。
最後に、新島襄の密出国における「福井藩の洋式船」に関する誤解を正すことは、歴史記述の正確性を保つ上で極めて重要である。この誤解の解消は、新島と福井の関係を過度に強調することなく、史実に基づいた客観的な評価を行うための基盤となる。総じて、新島襄と福井の関係は、直接的な物理的接点よりも、人物間の交流と教育理念の共鳴という、より深い精神的・思想的な繋がりによって特徴づけられると言える。