新島襄と有馬温泉:近代日本の教育者を癒し、その偉業を支えた地

新島は、有馬温泉が好きだったのだな。

私も訪れてみよう。

序章:新島襄と有馬温泉の歴史的背景

 

 

新島襄の生涯と同志社大学創立への道

 

新島襄(1843-1890)は、日本の近代化に多大な貢献をした教育者であり、同志社大学の創立者としてその名を歴史に刻んでいます。彼は天保14年(1843年)1月14日(旧暦2月12日)に江戸(現在の東京都千代田区神田錦町)の上州安中藩江戸上屋敷で、安中藩士・新島民治の子として誕生しました。幼名は七五三太と称され、その名は祖父が初めての男子誕生を喜んだ言葉に由来するとも、正月の注連縄にちなむとも伝えられています 1

若き日の新島は、鎖国下の日本を密かに脱国し、渡米するという大胆な行動に出ました。アメリカでは、キリスト教徒として洗礼を受け、神学や理学といった幅広い分野を学びました 1。この海外での経験は、彼の教育思想の根幹を形成し、帰国後の活動に大きな影響を与えます。明治8年(1875年)に京都で同志社英学校(同志社大学の前身)を設立し、キリスト教主義に基づく全人教育を提唱しました。これは、当時の日本の教育界において画期的な試みであり、日本の近代教育に多大な影響を与えることとなりました 1。彼の生涯は、日本の精神的・知的基盤の構築に捧げられましたが、その晩年は心臓病、リウマチ、喘息といった慢性的な持病に苦しむ時期が続きました 6

 

明治期における有馬温泉の役割と外国人避暑地としての側面

 

有馬温泉は、その長い歴史の中で、古くから日本の主要な温泉地の一つとして知られていました。特に幕末期には「有馬千軒」と称されるほど多くの旅館が軒を連ね、活気ある温泉地として栄えていたことが記録されています 7。明治維新後の開港期において、有馬温泉は新たな役割を担うことになります。神戸が開港された慶応4年(1868年)以降 3、神戸に滞在する外国人の間で避暑地として人気を博しました。当時の六甲山はリゾート開発が進んでいなかったため、有馬温泉は外国人にとって魅力的な選択肢となり、谷口非常勤講師が指摘するように「外国人リゾートのさきがけ」としての役割を担っていました 8

この有馬温泉の「外国人リゾート」としての側面は、新島襄にとって単なる療養地以上の意味を持っていたと考えられます。新島は長期間アメリカで学び、西洋の文化や思想に深く触れていました 1。帰国後も、日本の近代化とキリスト教教育の普及という、当時の日本社会においては革新的な事業に尽力しており、その思想の根底には西洋的な価値観が深く根付いていました。有馬温泉が提供する「西洋の気風」は、彼にとって単なる異文化体験に留まらず、海外で培った価値観や精神性を再確認し、内的なバランスを保つための心理的な安らぎの場となった可能性があります 6。多忙な教育活動の中で精神的な疲弊を感じていた新島にとって、この文化的な親和性は、自己を再構築し、精神的な安定を得る上で重要な要素であったと推察されます。したがって、有馬温泉は新島襄にとって、肉体的な治療効果だけでなく、精神的な安定と文化的アイデンティティの再確認を可能にする、複合的な「癒しの空間」であったと捉えることができます。この多面的な機能が、彼の心身の回復を促進し、その後の偉業達成の基盤を強化したと考えられます。

 

新島襄の有馬温泉訪問の軌跡

 

 

初期訪問と有馬への傾倒

 

新島襄は、同志社英学校を創立した明治8年(1875年)以降、少なくとも4回以上有馬温泉を訪れており、その温泉を深く気に入っていたことが複数の資料から確認できます 3。彼の有馬訪問は、単なる保養目的を超え、自身の健康維持と密接に結びついていました。

 

持病と療養の必要性

 

新島襄は、心臓病、リウマチ、そして特に晩年に悪化した喘息など、複数の慢性的な持病を抱えていました 6。彼は自らの健康状態を「病魔の囚人」と表現するほど、その不安を深く感じていたことが、知人や教え子への書簡から明らかになっています 6。京都の気候が自身の体質に合わないと感じていた新島は、「京都の気候がよくない」と記し、寒さを避けられる療養の地として神戸方面を好んで訪れるようになりました 6。有馬温泉が神戸近郊に位置することは、彼がこの地を療養の選択肢として重視した理由の一つです。

 

具体的な滞在記録と妻・八重との同行

 

新島襄の有馬温泉への訪問は、彼の病状の進行と密接に連動していたことが、詳細な滞在記録から読み取れます。有馬温泉は、彼の健康状態が悪化するたびに頼るべき「医療的な避難所」としての役割を担っていたことが明らかになります。

  • 明治19年(1886年)夏の滞在: 東垂水村(現・神戸市垂水区)に滞在していた際、甥からの手紙で有馬温泉の様子を知り、その効能に感化され、妻の八重とともに有馬へ向かいました 3。この滞在中に、彼は知人に宛てた手紙で「1日に1、2回入浴し、炭酸泉を飲んで静かに浩然の気(生命力や活力の源となる気)を養えば、大いに益するところがある」と記し、温泉の具体的な利用法とその効果に対する自身の評価を伝えています 3
  • 明治21年(1888年)秋〜翌年3月末の長期滞在: 彼の喘息が著しく悪化したため、新島襄は12月中旬から翌年3月末までの約3ヶ月半、有馬の諏訪山和楽園に家を借りて長期にわたる静養を行いました 3。この滞在は、彼が明治23年(1890年)に47歳で永眠するわずか2年前のことであり、彼の病状が一時的な静養では対処しきれないほど深刻であったことを示唆しています。この期間、妻の八重も彼に寄り添い、献身的に支えました。この有馬で妻とともに過ごした時間は、新島襄の心身を癒し、その後の同志社大学の発展という彼の「今日に残る偉業の原動力となった」と高く評価されています 3
  • その他の訪問: 明治初期には、亀岡から帰京後、妹の春野宛ての手紙で20日ほど有馬温泉に滞在する意向を伝え、実際に大黒屋で過ごした後に京都病院で結核と診断された記録も存在します 9。この記録は、彼の有馬温泉利用が、病状の悪化に伴う初期の段階から行われていたことを示唆しています。

これらの訪問記録を時系列で追うと、有馬温泉が新島襄にとって、単なる気晴らしや保養の場所ではなく、彼の健康状態が悪化するたびに頼るべき「医療的な避難所」としての役割を担っていたことが明らかになります。特に、晩年の深刻な喘息悪化時に長期滞在を選んだことは、彼が有馬の湯に深い治療効果を期待していた証拠であり、彼の病状の進行度合いと有馬温泉への依存度が比例していたと解釈できます。新島襄の有馬温泉での回復は、温泉そのものの効能だけでなく、妻・八重による精神的・物理的な支えという、人間関係に根差したケアが複合的に作用した結果であるとも考えられます。有馬温泉は、新島襄の人生において、彼の健康維持と生命活動の継続を支える上で極めて重要な役割を果たしたと言えるでしょう。彼の偉業が病に阻まれることなく継続できた背景には、有馬温泉という療養地の存在が不可欠であったと推察されます。

 

表1:新島襄の有馬温泉訪問記録概要

 

訪問時期 滞在場所 主な目的/健康状態 同行者 特記事項
明治8年(1875年)以降 不明 不明(有馬を大変気に入る) 不明 少なくとも4回以上訪問 3
明治初期(日付不詳) 大黒屋 療養(結核診断前) 不明 約20日間滞在後、京都病院で結核と診断 9
明治19年(1886年)夏 不明(東垂水村滞在後) 持病(心臓病、リウマチ、喘息)の静養 妻・八重 甥からの手紙に感化され訪問。炭酸泉の入浴・飲用で「大いに益する」と評価 3
明治21年(1888年)秋~翌年3月末 諏訪山和楽園(家を賃借) 喘息悪化による長期静養 妻・八重 約3ヶ月半の長期滞在。八重との時間は偉業の原動力となる 3
不明(旧旅籠町) 茶屋 協力者(沢辺琢磨、福士卯之吉ら)との交流の可能性 沢辺琢磨、福士卯之吉ら 酒を酌み交わした茶屋があったとされる 10

 

有馬での滞在詳細と温泉療養の効果

 

 

具体的な療養生活:入浴と飲泉

 

新島襄は、有馬温泉での療養において、単に温泉に浸かるだけでなく、その泉質を最大限に活用する実践的な方法を取り入れていました。彼は知人に宛てた手紙の中で、「1日に1、2回入浴し、炭酸泉を飲んで静かに浩然の気(生命力や活力の源となる気)を養えば、大いに益するところがある」と具体的に記しています 3。この記述からは、当時の温泉療法における彼の知見と、有馬温泉の効能に対する彼の確信がうかがえます。彼は自身の健康状態と温泉の効能を客観的に観察し、その効果を高く評価していたことが分かります。この積極的な利用法は、彼が単なる休養ではなく、明確な治療効果を求めて有馬を訪れていたことを示唆しています。

 

諏訪山和楽園での長期滞在

 

明治21年(1888年)の秋ごろから新島襄の喘息が悪化した際、彼は12月中旬から翌年3月末までの約3ヶ月半、有馬の諏訪山和楽園に家を借りて長期滞在を行いました 3。この長期にわたる静養は、彼の病状が一時的な休養では対処しきれないほど深刻であったことを明確に示しています。この滞在は、彼が明治23年(1890年)に47歳という若さで永眠するわずか2年前のことであり、その病状の重篤さがうかがえます。

この極めて困難な時期において、妻の八重は新島襄に常に寄り添い、献身的に支えました。有馬で夫婦が共に過ごした時間は、新島襄の心身を深く癒し、その後の同志社大学の発展という彼の「今日に残る偉業の原動力となった」と高く評価されています 3。八重の存在は、単なる付き添い以上の意味を持っていました。重病を抱える人物の療養においては、温泉の物理的な効能もさることながら、精神的な安らぎや献身的な介護が不可欠です。八重は精神的な支えとなり、日常の世話をこなし、さらには新島襄のために手作りの洋菓子(ジンジャーブレッド)を作るなど、細やかな配慮を通じて彼の心身の負担を軽減しました 6。こうした八重の支えがなければ、新島襄が有馬で得られた「癒し」は限定的なものに留まった可能性が高いでしょう。新島襄が有馬温泉で得た回復は、温泉そのものの効能だけでなく、妻・八重による精神的・物理的な支えという、人間関係に根差したケアが複合的に作用した結果であると考察されます。これは、歴史上の偉人の功績を語る上で、その背後にあった個人的な支えの重要性を示唆するものです。

 

有馬温泉が新島襄の偉業に与えた影響

 

 

心身の回復と精神的支柱としての有馬

 

新島襄が有馬温泉で過ごした時間は、彼の心身の健康回復に寄与しただけでなく、同志社大学の創立と発展という、彼の生涯をかけた「偉業の原動力」となったと評価されています 3。これは、有馬温泉が単なる病気治療の場を超え、彼の精神的な支柱としても機能したことを示唆しています。谷口非常勤講師は、新島襄と八重にとって神戸一帯(有馬温泉を含む)が「西洋の気風を感じられ、心身の疲れを癒やせる特別な場所」であったと指摘しています 6。この見解は、有馬が彼にとって、単に肉体的な休息の場であるだけでなく、海外での経験と結びつく文化的・精神的な安らぎを提供し、その国際的な視野を維持・再確認する上で重要な役割を果たしたことを示唆しています。

 

同志社大学設立という大事業を支えた癒しの時間

 

新島襄と八重が有馬温泉を頻繁に訪れた時期は、同志社大学の設立と運営に奔走し、多大な精神的・肉体的負担を伴う「大切な時期」と重なっています 6。大学設立という大事業は、並々ならぬ情熱、精神力、そして持続的な努力を必要とします。慢性的な病気は、これらの要素を著しく損なう可能性がありますが、有馬温泉での療養が、新島襄の「教育への情熱」を維持・再燃させる触媒となった可能性が考えられます。

このような極めて重要な時期における有馬での療養は、彼が病状の悪化にもかかわらず、その後の教育活動を継続し、同志社を近代的な大学へと発展させるための不可欠なエネルギーを再充電する機会を提供しました。病による身体的苦痛が軽減されることで、彼は精神的な余裕を取り戻し、同志社の未来に対する構想を練り、その実現に向けた意欲を維持することができました。有馬は、彼が自己の使命を再確認し、困難に立ち向かうための内的な力を養う「精神的な聖域」としての機能も果たしたと考えられます。彼の死が47歳という若さであったことを考慮すると、有馬での療養が彼の活動期間を延長し、より多くの成果を上げることを可能にした可能性は高いでしょう。これにより、彼の短くも濃密な生涯における教育的遺産が、より強固なものとして後世に引き継がれることになりました。

 

有馬における交流と活動の逸話

 

有馬の旧旅籠町(はたごちょう)には、新島襄が協力者とされる沢辺琢磨や福士卯之吉らと共に酒を酌み交わした茶屋があったとされる町名碑が存在します 10。しかし、この茶屋での具体的な交流内容や、有馬温泉の療養との直接的な関連性を示す詳細な情報は、現在の資料からは明確ではありません 10

それでも、この伝承は、新島襄の有馬滞在が、単なる療養だけでなく、同志社の運営やキリスト教布教に関する非公式な意見交換や親睦の場としても機能していた可能性を示唆しています。新島襄は同志社大学の創立者であり、キリスト教の布教にも尽力していました。彼の活動は多岐にわたり、多くの協力者との連携が不可欠であったことを考慮すると、療養のために有馬に滞在していたとしても、彼のような活動的な人物が完全に活動を停止していたとは考えにくいでしょう。茶屋での交流は、リラックスした雰囲気の中で、同志社の運営やキリスト教布教に関する非公式な議論、情報交換、あるいは協力者との人間関係の深化を図る機会であった可能性が高いです。これは、有馬が彼の「オフ」の場であると同時に、彼の「オン」の活動の一部を支える場でもあったことを示唆しています。有馬温泉は、新島襄にとって、肉体的な回復の場であると同時に、彼の社会活動や教育事業を継続するためのネットワーキングや戦略的思考を育む場でもあったと評価できます。これにより、有馬での滞在は、彼の個人的な健康維持と公的な使命達成の両面において、多角的な価値を持っていたと言えるでしょう。

 

結論:癒しの地が育んだ偉人の功績

 

新島襄と有馬温泉の関係は、単なる歴史上の人物と特定の場所の関わりを超え、彼の晩年の健康を支え、ひいては同志社大学の創立と発展という彼の偉大な事業を間接的に支えた、極めて深い結びつきであったと結論付けられます。明治8年(1875年)以降の複数回にわたる訪問、特に喘息悪化による諏訪山和楽園での長期滞在は、有馬温泉が彼にとって不可欠な療養地であったことを明確に示しています 3

有馬温泉は、新島襄の心身の回復に多角的に寄与しました。温泉の物理的な効能、特に炭酸泉の入浴と飲用による効果は、彼自身が「大いに益するところがある」と評価した通り、彼の持病の症状緩和に貢献したと考えられます 3。加えて、妻・八重の献身的な支えは、病に苦しむ新島にとって精神的な安らぎと日常のケアを提供し、療養効果を相乗的に高めました 3。さらに、有馬が神戸開港後の外国人避暑地として「西洋の気風」を帯びていたことは、海外で教育を受けた新島にとって、文化的・精神的な親和性をもたらし、彼の国際的な視野を維持する上でも重要な役割を果たしたと推察されます 6

このように、有馬温泉は新島襄の肉体的な健康を支えるだけでなく、彼の教育者としての情熱と使命感を維持・強化する上で、極めて重要な役割を担いました。彼の有馬での経験は、病と闘いながらも理想を追求し続けた新島襄の人間像をより深く理解する上で不可欠な要素であり、有馬温泉が近代日本の教育の礎を築いた人物の活動を継続するための活力を与えた場所として、日本の教育史において、これまであまり注目されてこなかった隠れた、しかし極めて重要な貢献を果たしたと言えるでしょう。有馬温泉は、新島襄の個人的な回復と、彼が成し遂げた公的な偉業の両面において、その存在意義を深く刻んでいます。