いよいよ同志社は150年目に突入した。
はずかしながら、11月29日はこれまでただの創立記念日で、来年は150年目の年であった。
ただの点だったのである。
やはり150周年に向けて振り返りポイントで振り返っていくと、新島の軌跡のようなものが見えてくる。
「
新島は新しい学校設立の地に関西を選んだ。明治8年(1875)1月,大阪に到着した新島は伝道の傍ら,学校設立の運動を開始した。偶然,木戸孝允の来阪を知った新島は,宿舎に木戸を訪問し,協力を願い出る。木戸は快諾,長州出身の大阪府知事・内海忠勝に新島を紹介し,学校設立の理解と援助を求めた。しかし,内海知事は学校設立には賛同したものの,キリスト教思想に基づく教育には難色を示した。
そんななか,博覧会を見るため入京した新島は,再び木戸の紹介によって京都府顧問の山本覚馬に面会。山本は元会津藩士であったが,その人格見識を買われ,維新後の京都政財界で重きを成した人物である。当時,産業近代化の投資がかさんだ京都府では,府立学校の財政が悪化。特に欧学舎は外国人教員の人件費が高く経営難に陥り,外国人教員は解雇し府立中学に吸収するという有様で,私立の英学校が求められていた矢先であった。キリスト教の理解者でもあった山本は,新島の計画に賛同し,用地提供も申し出た。新島は京都での学校開設を決め,相国寺門前の山本の所有地,旧薩摩藩邸5,800坪余りを500円で購入した。
」
https://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012528.html
とある。
(この文章の中の博覧会は、京都博覧会のことであろうか?)
新島は大阪で木戸に会うが、大阪の地での開講は断念。そして、京都での開講になるのだ。
新島が土地を取得したのは6月ごろであろうか((1875年6月24日)?)
一方、木戸は2月に大阪会議。
そして、西南戦争が勃発して、木戸はなくなる。
その時期に熊本バンドは、同志社にて存在を大いに発揮し、今に影響を及ぼす。
すごい1年である。
学校設立だけでも大変であったが、日本が大きく変わっていくなかで新島はどのように感じていたのであろうか。