googleには我々のもとに帰って来て欲しい

もう自分自身も研究室も関連している学会も大きくgoogleに依存している。
だけれども一方で、Google Waveやらgoogle +やらで大きく迷走しているようにも見える。APIの使い勝手も昔ほどではなくて、やたら課金されてひどいことになっている。
1998年にgoogleの検索が出てきたときは、確かにぼくらのためのツールであった。
埋もれたウェブの情報の中から的確にページを選択してくれて非常に驚いた。
gmailがなければ、iPhoneの成功やsmart phone の普及もなったかと強く信じている。
でもなんだか今のgoogleはfacebookに戦いを挑んで僕らとは離れていっているように思えるのである。
実は誰もが知っている「AppleがSonyになれた本当の理由」
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ここに各サービスを提供している会社は、それぞれ誰を相手にしているのかという話しが書いてある。
googleは最初は、我々個人を相手にしていた。だから、”don’t be evil“という標語を我々も信じることができたが、今はその相手が、広告主になってしまっている。
だから、広告主に対してはevilではなくても、我々個人に対してはevilになることもあるだろう。
そんなにソーシャルが重要なのだろうか。個人に向き合った結果、得られる収入では満足できないものなのであろうか。
今、我々 個人に向き合うシステムやらツールは不十分で、まだまだ、googleの出番は多いと思う。
だけれども、そのためには、広告主を意識して会社の運営をするのではなくて、再度、我々の個人をまず意識した運営をしてもらう必要があるのだと思う。
Google、クラウドストレージを4月に発表か
IT Media
こういうのは大歓迎だ。
他のシステムの後追いだけでなくて、googleだからこそできる個人向けのイノベーションってまだまだあるんだと思う。
そして、個人向けの”don’t be evil”を思い出してほしい。
そうでなければ、いつgoogleから抜け出すのか考え始めなければならないから。

メモ:ベクレル シーベルト

ベクレル(becquerel, 記号: Bq)とは、放射能の量を表す単位で、SI組立単位の1つである。単位記号は、[Bq]である。1 s(秒)間に1つの原子核が崩壊して放射線を放つ放射能の量が1 Bqである。例えば、毎秒370 個の原子核が崩壊して放射線を発している場合、370 Bqとなる。

Wikipedia

シーベルトは、生体の被曝による生物学的影響の大きさ(線量当量)の単位。
線量当量とは、吸収線量(放射線から受けるエネルギー)に、法令で定められた係数(放射線の種類ごとに定められた人体の障害の受けやすさ)を掛けたものである。

Wikipedia
– 人体は世界平均にして年間およそ 2.4 mSvの自然放射線にさらされている。Wikipedia
– 2 Svの放射線を全身に浴びると5%の人が死亡し、4 Svで50%、7 Svで99%の人が死亡すると言われている。一方で、0.2 Sv (= 200 mSv)以下の被曝では、急性の臨床的症状は認められないとされる Wikipedia
– 「100ミリシーベルト(mSv)以下では、被ばくと発がんとの因果関係の証拠が得られない」 東京大学医学部附属病院 放射線科准教授 緩和ケア診療部長 中川 恵一
– バナナ一本を食べると、バナナに含まれるカリウム40で0.0001ミリシーベルトの内部被曝をします。つまり、バナナを毎日1.2本食べると、一年間で約0.043ミリシーベルトの内部被曝になります。ちなみに煙草を毎日一箱吸うと、煙草に含まれるポロニウム210で年間0.2ミリシーベルト被曝します。 河野太郎
– 人間の身体も体内に取り込んだカリウムのせいで4000ベクレル程度の放射能をもっています。体重が60kgとすると、67ベクレル/kgになります。それと比べても100ベクレル/kgの物質を放射性物質ではないと定義してもかまわない 河野太郎
– 日本-NY 往復で 0.2-0.3mSv Yahoo

2012国際医用画像総合展

横浜のパシフィコ横浜で開催される 2012国際医用画像総合展 に、医情報学科の学生を引き連れてバス2台で参加することを計画しています。
ちょっと強行軍ですが、下手な工場見学よりもずっと刺激的で将来の仕事が実感できるし、未来が広がるものであることを実感してもらえると思います。
新3年生と新M1を募集中。

日本のものづくりの国際競争力の衰退は激しいのか?

たとえば こんなブログ にあるように日本のものづくりは国際的な競争力の中、衰退期になるのではないかと思っていた。
しかしながら、この2週間の間に、3度、その考えは間違いであるとの議論になった。
日本のものづくりの国際競争力は維持されているという見方である。
衰退していると考えている自分がだめだめだなと思わせるほど、ものづくりにたずさわる、教育されている多くの人が国際競争力は維持されているおっしゃる。
GDPとかがさがっているのは円高などの要因だからだとか、デフレーションになっているのは市場にお金がゆきわたっていないからだという意見も多い。米国の企業が好調を維持するはずがないし、日本の企業はちゃんと考えているのでかならず復活するはずであるとセットでおっしゃる。
日本の赤字の企業は、実は見せかけだけで実態は黒字だし、これまでの蓄積でうまくいくようになっているのだという意見も多かったな。
だからそれほど、appleとかIBMとかgoogleとかfacebookとかを作る必要がないと感じているのであろうな。
そうかもしれない。
だけど僕は日本のものづくりの国際的な競争力は衰退期にあるためにこのようなことになっているのではないかと感じているし、仮に企業の赤字が見せかけだとしても、本当に赤字になってしまうのではないかと思う。
すなわち、僕は「日本のものづくりの国際競争力は平均的には維持されていない」という考えを持っていて、何故、平均的に維持されないかと言えば、作らないといけない「もの」のターゲットが違うからだと思っていた。
だのに、このアイディアはおおよそコンセンサスがとれているものではないことに大いに驚く。
だから、日本でもappleみたいな会社必要だよねとか、なんでsonyってappleみたいにならなかったんだろうというところからの議論にならない。お前何いってんの?日本にapple必要ないじゃん。というところから始まって えー ということになる。
これまた訴求しない例えなのだが、日本刀を作る技術は非常に高い物が必要で、技術を得るのに非常に高いコストが必要であろうし、国際的には高い競争力を持っているであろう。でも、日本の国際競争力を平均的に維持するためには、日本刀じゃあだめだと思うんだけどなあ。
だから、作る「もの(サービス)」を離散的に変える必要があるのだと思う。
医療分野というのはその一つかもしれないし、一部の企業や本学でもチャレンジしているところなのかもしれない。
池田信夫野口悠紀雄に感化されすぎてるかしら。
とりとめのないメモということで。
ただ、「日本のものづくりの国際競争力を平均的に維持すべきであるかどうか」という問題は、また別の議論であると思っている。

なぜAppleはSonyになれたのか?

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これは良い問いかけだなあ。
また、サービスの相手が誰なのかについていつも考えなければならないというのは良いポイントだ。
「誰を主たる顧客とするか」というのがぶれると、別の言葉で言えば、同じ会社に複数の顧客の種類がいると、資源をどちらにふりわけるのかでトレードオフがでてしまう。
同志社大学のうちの学部、学科も同様だな。
誰のためのサービスなのか。
はっきりとした意識が必要だな。
「地の塩」となる人材育成のために、そこはぶれるところではない。

1年 立ちました。

うちの地域では、休み中だが、この日だけは臨時に登校が毎年義務づけられていた。
毎年、体験された方が身近にいたらお話を聞いてくることという宿題がでた。
一方で、祖父は体験しているのだが、その生涯中、僕がどんな質問をしてもまったく何も教えてくれなかった。それだけの体験である。
もっとも怖いのは体験が風化することである。
幼子をかかえ、守るようにして死んでいった母親の姿が多数
愛すべき人が目の前で死んでしまい普通に生活できなくなる人多数。そういう人はプレハブのような一人部屋で暮らすことが難しい。
時間がたつと行政は見た目を気にするようになって、そこで過ごす人のことよりも強制的な町作りに力を入れるようになる
修学旅行で中高生がやってくる。善意でプレゼントを持ってくるのだが、日常的に使えないので、もらった方も、行政もその対処に苦慮する上に、存在することによって問題が発生する。
修学旅行で中高生がやってくる。真剣なものも多数だが、当然、全く感心の無いものも多数。体験談を話す人、準備する人の間で亀裂が生じる。
などなど。
これが何かと言えば、広島の原爆の経験だ。
歴史は繰り返す。何にも進歩していないと無力感を感じる。
大人になってから子供の時よりも力がないこともあるんだなと感じる。
提言や方向付けを行わないテレビや新聞に正面から目を向けられない。
「過ちは繰り返しませんから」と100万回言ってきたけど、過ちは繰り返す。